横浜市史資料室との共催講座は大盛況でした!

 去る7月21日に開催いたしました、横浜市史資料室との共催講座は、大盛況でした。

 
 「横浜から昭和を探る――新しい昭和史像を求めて」という題名通り、前半は、大西比呂志氏(フェリス女学院大学))「『横浜市史Ⅱ』の頃―市政関係を中心に」 と羽田博昭氏(横浜市史資料室)「横浜市史資料室となって―アーカイブスを目指して」 によって、横浜市史資料室の豊富な資料をご紹介いただきました。
 休憩をはさんだ後半は、 吉見義明氏(中央大学)「横浜市史資料室所蔵の日記についてー戦中・戦後の民衆意識の解明のために」と雨宮昭一会員(獨協大学)「昭和期(1926-1989年)を見直し新しい歴史像を考えるためのいくつかの課題、視点、方法」の報告がありました。
 吉見氏は、横浜市史資料室所蔵の一般市民の日記から戦時・戦後の民衆意識の変化を鋭く分析されていました。また、雨宮会員は、昭和期全期間での複数の歴史のメタ認識を掲げることで興味深い問題提起をされていました。
 最後に、報告者4人と司会の 天川晃会員(横浜国立大学)によるパネルディスカッション「新たな昭和史研究の可能性を求めて」が行われました。会場からの複数の質問も交えながら、学問的な深い感動が会場中にあふれているようでした。

 しかし、参加人数もさることながら、ふと会場を見回すと、鳴海正泰氏や今井清一氏という横浜市の行政と学会を代表するような方のお顔を拝見することもできる、実にすごい共催講座となりました。

 研究会を代表してご報告いただいた雨宮会員の歴史のメタ認識の詳細については、『占領・戦後史研究会ニューズレター』29号、2012年6月10日19-23頁に掲載された下記の文章をご参照ください。


 
      ★★占領・戦後史のメタ認識、地域、三・一一★★
                              雨宮昭一

  一九六〇年代七〇年代以降を歴史として研究し始めるとそれ自体の事実や資料の多さ大きさに気付き、おもわず、「戦後」にとらわれないで現代史を考える、考えたい、という気分になる。「戦後体制」のゆらぎの学的ないし心情的表現の一つだろう。
 「戦後」と(多分無理だろうが)さっぱりと決別するためにも、占領と戦後を改めて深く見直さなければならないだろう。それには「事実」と「システム」と「メタレベル」、特に前者を認識する認識自体としてのメタレベルの再検討が不可欠である(雨宮昭一「代表就任にあたって」『占領・戦後史研究会ニューズレター』2010年6月)。
 そこでまず、占領・戦後に関する考え方の一つの原型をつくった丸山真男と、忘れ去られているがそれと対照的な大熊信行の重要な言説にさかのぼって検討しよう。
 丸山は「八月一五日」がすばらしい決意の日であり戦後民主主義の原点とする「復初の説」を述べ、関連して「大日本帝国の『実在』よりも戦後民主主義の『虚妄』の方に賭ける」と述べた。このきっかけは大熊信行の「日本民族について」『世界』1964年1月号)である(この間の経緯については酒井哲哉「核・アジア・近代の超克」『思想』2011年3月号21頁)。
 大熊は二つの「史実」について述べる。一つは「大東亜戦争」の終わりは、1945年8月15日ではなく、1952年4月29日であること、「われわれが日本に迎えたものは,40万の敵の軍隊の上陸であり、その敵の征服のもとに、国土をゆだね、身をゆだね、主権をゆだねることによって、生物的生存を全うすることができた」。8月15日に戦争が終わったのではなく、「その日から別な形の戦争体験がはじまった」ことである。
 この様な征服、被征服関係は「近代の民主主義原則の反対極をなすものであった」こと。以上のことが明らかにされなかったから「8月15日以降が、たちまち“戦後”として受け取られ,真に戦後が来た時には、『もはや戦後ではない』、という言葉が国民に愛好される始末となった」と述べる。
さらに大熊は述べる。「日本人が一変した」のは「占領」「征服」という名の「約7年の戦争過程」においてでありそれは講和後までつづく。「8月15日は日本民族が自己を失った日」であったが『素晴らしい決意の日であった』という丸山真男の『復初の説』もある」。
 「歴史を切断しようとしたのは、征服者の対日政策ばかりではない。それがわれわれ自身でもあった」「われわれは占領政策の思考方式を歓迎し、その方法に囚われていった。」と述べる。
 もう一つの史実に関わるものは「軍事占領下に民主主義が成立した、という通念である。それは8月15日で戦争は終わったという通念と、結びついたものだというべきであろう」。「両者が共存し得る」と考えるのは「最大限の錯覚であり」それを「被征服国民にあたえることは、連合国側の最高の政策技術であった」こと。
 「軍事占領下に政治上の民主主義が存在したという考えかたは一言にして虚妄である」。「民主主義が存在し、育ったかのように見えるとすれば、育ったもの自体が、その中に虚妄を宿している」と述べる。
 勿論、大熊は、単純な国家主義者ではまったくなく、核時代に平和憲法を守るためには国家主権批判が必要であり、それを担える主体形成のためにも、上記のごとき「知的、精神的装備」が必要とする、立場である。
 日本人全員が8・15を「素晴らしい」と当時感じていたわけではなく(たとえば山田風太郎や海野十三などの当時の日記)、民主主義と占領が共存することも考えていた訳ではないから「われわれ知識層が」(73頁)と大熊が述べるように、言説をうみだす知識層の問題としているといえよう。
 大熊の指摘する「占領」と「民主主義」の共存という「被占領側の錯覚」と連合国の「最高の政策技術」については“無条件降伏モデルのサクセスストーリー”としてその具体的形態をほんの一部分だが明らかにした研究も既にある(雨宮昭一『占領と改革』2008年、岩波新書)。さらに1956年頃に中野好夫が「もはや戦後ではない」と論じた『文芸春秋』や、『世界』『経済白書』などで戦後は終わったかのごとき議論がなされたが、「戦後体制」が55年位から形成され始動したとの、「戦後」はまさしくこの時期からはじまったとする研究も既にある(雨宮『戦時戦後体制論』1997年、岩波書店)。
 しかし、上記の占領、戦後とは何かという認識の認識=占領と戦後のメタレベルと、その認識を産出する「知識層」については、研究が始まったばかりである。次にはそれにふれよう。
 この「知」の生産、管理、運営に関わる知識人については岩波講座『「帝国」日本の学知』全八巻、2006年、などでも解明されつつある。筆者が参加している「戦時法研究会」では、法学と法学者に焦点をあててそれを解明し、大まかにいえば、法学者たちは戦時との「断絶』を強調するが,田中二郎、宮沢俊義、など多くの戦後まで活躍する法学者は、権力者(戦前は日本政府、占領期はGHQ)により作られた法令の解釈と説明という行動の仕方は、まったくかわらない、ことなどが明らかにされつつある(なお出口雄一「戦後初期の法学と法学者―法社会学論争、法解釈論争を中心として」占領・戦後史研究会例会報告、2012年3月31日、など参照)
 たとえば著名な我妻栄は、1935年から40年にわたり、「満州国民法草案審議員」として法典つくりにかかわり、さらに1941年から43年にわたり、汪兆銘政権下の国立北京大学法学院で中華民国民法の講義を行いその内容を1946年7月に日本評論社から『中華民国民法総則』として出版している(高橋良彰[我妻栄記念館所蔵 我妻栄海外渡航関連資料解説]2005年3月31日。)
 その我妻は戦後の日本国憲法における生存権論についても、「通説」的解釈として大きな影響力を持ったという(冨江直子「『生存権』の論理における“個人と社会”ー戦後日本における『権利』の言説」中田潤など編『市民社会の可能性と限界』(茨城大学推進研究プロジェクト報告書、2012年3月、12頁)
 すなわち自由放任と個人主義を基本理念とし、「国家」の権力によって侵してはならない個人の自由権を保障する19世紀憲法から、社会連帯を基本理念に「国家」の積極的な介入による個人の生存を保障する20世紀憲法へ、「自由権的基本権」から「生存権的基本権」へ、そしてその国家は「協同体」であることでそれが可能となると1948年の著書でのべている(冨江 前掲12頁
 以上のような理論は、戦時期の昭和研究会や三木清などが展開した協同主義と極めて類似している(三木清「協同主義の哲学的基礎」1939年、酒井三郎『昭和研究会―ある知識人集団の軌跡』 1979年、TBSブリタニカ、335頁所収、なお三木は「協同主義は全体主義に反対して個人の独自性を重んずる」とも述べている)。
 もう一つの例は、占領、戦後史研究会2010年度シンポジュウム「60年安保の時代―地域の現実から」で報告された鳴海正㤗氏による東京都政調査会における知識人たちの戦時、戦後のあり方である。このシンポは「1960年代、70年代」の「地域」を「歴史的対象」とし、問題意識としてはその時代に「革新自治体」であった都市が、現在いずれも“ネオリベラリズムプラスナショナリズム”のベルト地帯になっているのはなぜか、という問いで設定されその成果を「戦時、占領、戦後、ポスト戦後にわたる長いパ―スぺクテイブの中に位置付け」たいとした(雨宮「60年安保の時代―地域の現実から」『占領・戦後史研究会ニューズレター』2011年6月号)。鳴海氏は「60年安保・都市型社会への転換点-地域民主主義と自治体改革」と題して、その改革の動きが60年代革新自治体―「地方の時代」―1990年代の「地方分権改革」に結実したことを報告された。報告後に筆者に報告ではふれられなかった内容である「お話した都政調査会をめぐる革新の戦前と戦後のつながりを、この際にと考え・・・まとめ」(筆者宛て書簡2012年3月)られたのが「覚書 戦時中革新と戦後革新自治体の連続性をめぐって―都政調査会の設立から美濃部都政の誕生まで」『自治総研』38巻(2012年4月号)である。1956年に都労連の出資によりつくられた都政調査会の役員などは旧制二高の関係者門屋博などの転向者、亀井勝一郎などの「東大新人会」、小森武などの上海の「大陸新報」、蝋山政道など「昭和研究会」に関係した人々、大内兵衛を中心とする労農派学者グループとその流れの人々(大内グループ)」、稲葉秀三などの「革新官僚」、などで構成されており、国策バルプの水野成夫や戦時中の上海横浜正金銀行(東京銀行)堀江薫雄なども財政的、組織的援助を行ったという。この「覚書」によって60年代の革新自治体が、戦前、戦時に起源をもつことが明らかにされた。シンポの貴重な成果というべきであろう。
 この中で「知」の生産、管理に関わった点で、大内グループが注目される。大内グループの動きは、ローラ・ハイン『理性ある人々力ある言葉―大内兵衛グループの思想と行動』(2007年、岩波書店)や前掲『昭和研究会』などによれば、大内は1920年代には石橋湛山の研究会に関わり、30年代には有沢広己は昭和研究会で協同主義にもとづいて経済再編案をつくり、このグループはその専門知識によってテクノクラートとしても、戦争にも関わり、大内は年金や保健などの福祉の制度つくりにも賀屋興宣などとも協力してベバリッジ案などを範として関わっている。また、大内、有沢などは「産業の平和的発展と政治の科学的推進を期して」原子力平和利用をすすめた。
 前述都政調査会の構成とも関わらせて、このグループの戦時・戦後を考える場合には「戦時革新」から「戦後革新」の連続という側面はあるが、四つの潮流論で整理することもできるのではないかと思われる。すなわち下からの平等化、合理化としての社会国民主義派、上からの平等化、統制としての国防国家派そして出自も含めて自由主義派としてのあり様、そして、新官僚も含む反動派との対立、これらグループ内外にわたる複合と展開としてみると、例えばこのグループの単純な保守と革新軸でははかれない多様な側面が正確にはかられると思われる。
 それは、社会主義に関心を持っていた多数の人々が戦争支持に傾いていったのを十把一からげに「転向」という一つのカテゴリーでとらえる、のではなく、戦時体制の強化は国内体制の合理化・社会化であり、「積極的にその前進のための理論活動を企てた」ものが多く、そのような視点から戦争責任の問題も考えるべき、との大熊信行の指摘の具体的展開でもあろう。
 最後に今後解明すべき課題をまとめておこう。
 第一には、占領・戦後とは何か、を考える時,あらためて占領と民主主義の共存可能性、と戦後はいつはじまったのか、をその形態までふくめて検討しなければならないこと。
 第二にそのような「知」の担い手、例えば我妻栄たちの戦時・占領・戦後の行動をみると、戦争に協力したか否かとその程度を問う責任の立て方もありうるが、戦時体制や植民地法制を通しての近代法の“継受”や“発展・展開”や“内外への普及”など「近代化」「合理化」「現代化」という当時の連合国も含む“近代国家”“現代国家”の知識人として極めて“ノーマル”な行為をなしたことの責任をどう歴史的に考えるか、という視点が、必要と思われる。連合国におけるパーソンズ、ドラッカーなどは、戦時の理論的営為を戦後ダイレクトに展開したのである。
一見矛盾するが、第三には、50年代前半までは、戦前戦時期につくりつめられた“知”(たとえば協同主義)が、新憲法の解釈や経済、国際関係などの知も含めて“通説”的に存在していた。しかし、50年代後半以降になると「反動」の知と、個人による契約理論でおおわれ、後者は、自由主義(新自由主義)と市民民主主義に分化しつつ支配的となっていき、時には合流しつつネオリベラリズムプラスナショナリズムとして行きづまっている現在“失われた”50年代までの戦前以来の社会的連帯、国家の責任、市場の相対化などを内容とする協同主義という“知”などの再位置づけ、再意味づけが、考えられよう(『シリーズ日本近現代史⑩日本近現代史をどう見るか』2010年、岩波新書、176頁)。
第四に以上からは、戦時戦後の断絶よりも連続の視点が要請されるが、それを上からと下から、国家と社会、政策などの内容を担う複数の潮流の組み合わせで解明することであろう。例えば60年代の革新自治体をその方法で明らかにすることによって、保守対「革新」を越える過去から現在と未来に歴史的深みと豊かさを用意することでもあろう。そのためには都政調査会―革新自治体を歴史的に構成している上述のごとき「革新」や自由主義以外の実に多様で豊かな方向性と要素を自覚的、方法的に顕在化することであろう。
 以上は同時に深刻な人災でもあった三・一一に帰結した戦後システムを動かしてきた基本ソフトの再検討と再構成の一部を間違いなく担うことになろう。(二〇一二年七月一四日校正)


         ★★★編集後記★★★

 いや~、本当に盛り上がったイベントでした。
 しかも、二次会では、久々に研究会の長老、竹前栄治会員も登場し、ブログ編集者の感激も最高潮に達しました。
 さて、恒例の年末シンポにむけて、これからがこの1年の総決算です。
 運営委員会で準備を進めていますが、今年度は「戦後体制の「初期条件」を問い直す――史料実証に基づく再検討」をテーマとして、12月15日(土)に二松学舎大学で開催の予定です。
 具体的には、日本国憲法と日米安保体制という、戦後体制の根幹というべき制度がどのように構築されたのか、そして、その意味について今どのように考えるべきなのか、史料を踏まえながら再検討を試みたいと考えています。
 シンポジウムの詳細については、次回研究会のご案内と共にブログに掲載するつもりです。
 どうぞご期待ください!
                                    (文責:栗原)
 



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